「まさか、まだ食事をしていなかったのか? 何故だ?」「何故と言われても……」ニコラスに問い詰められてジェニファーは困った。むしろ、何故夕食が提供されなかったのか聞きたかったのは自分のほうだと言うのに。何と答えればよいか分からず黙ってしまうと、ニコラスはため息をついた。「食事がまだだったなら、何故自分から言わないんだ? 黙っているから誰にも気づかれなかったのだろう?」「あの、そのことですが……実は何度も呼び鈴を鳴らしたのですが、どなたも部屋を訪ねてきてくれなかったのです。ジョナサン様を一人部屋に残して、廊下に出るわけにもいきませんでしたし」「何だって……? 呼び鈴を鳴らしたのなら、誰も来ないなんて話はないだろう。まさか壊れているのか?」「いえ、壊れているわけでは……」ニコラスは最後までジェニファーの話を聞かず、呼び鈴をグイッと引っ張るとチリンチリンとベルの鳴る音が聞こえる。「壊れていないじゃないか。そのうち誰か来るだろう。それよりジョナサンの様子はどうだ?」ニコラスはベッドに近付き覗き込むと、スヤスヤと愛らしい姿で眠るジョナサンの姿がある。「ジョナサン様ならミルクを沢山飲まれ、オムツも変えたところすぐにお休みになりました」背後からジェニファーが声をかけた。「そうか」振り向かずに返事をするニコラス。「あの、それでお願いがあるのですが……」「お願い? 一体何の?」眉をひそめながら、ニコラスは振り向いた。「はい。ジョナサン様のお世話をするには別の部屋では夜の様子が分かりません。なので、出来ればこちらのお部屋で寝泊まりさせていただけないでしょうか? そうすれば夜中ジョナサン様がぐずったときなど、すぐに対応出来ますので」「何? この部屋で寝泊まり……? 1日中、ひとりでジョナサンの面倒を見るということか?」「はい、そうですけど?」ジェニファーにとっては当然の話であったが、ニコラスには信じられなかった。(メイドたちですら、2人体制でジョナサンの面倒を見ていたのに? 夜は俺が一緒にこの部屋で眠ってニコラスを一人にしないようにしていたのに……」「あの? どうかされましたか?」「い、いや。何でもない。それにしても呼び鈴を鳴らしたのに遅いな……何故誰も来ない? もう一度鳴らしてみよう」再度呼び鈴を鳴らしても、一向に誰かが来る気配すら感じ
――その頃。ジェニファーは目が覚めたジョナサンにミルクを与えていた。10歳の頃から当時赤子だったニックのお世話をしていたジェニファー。これくらいはどうということはなかった。「フフフ……美味しい?」上手にジョナサンにミルクを飲ませているジェニファーを悔しげに見つめるダリア。(どうしてよ……? なんでこの女……こんなに上手なの?)「……随分お世話をするのが上手なのですね? 先程のおむつ替えも手際が良かったですし」悔しさをにじませながらダリアは尋ねた。「私、10歳の頃から赤ちゃんのお世話をしてきたんです。小さい子供も大好きですし。本当に可愛らしいわ」笑顔で答えるジェニファー。「……っ!」その言葉にダリアは言葉をつまらせる。(何よ? 噂で聞いていたのとでは随分違うじゃない。自分勝手で気が強くて我儘な女だって聞いていたのに……)「あの、何か?」ダリアの様子がおかしいことにジェニファーは気付いた。「い、いえ。何でもありません。ミルクの後は沐浴の方法を教えますからね。しっかり覚えて下さいよ」「はい。よろしくお願いします」沐浴の方法もジェニファーは当然知っていたが、素直に返事をするのだった――****――午後7時ジョナサンの寝かせつけも終わり、ジェニファーは手持ち無沙汰でジョナサンの部屋に残っていた。ダリアが部屋を出て行ってからは誰もこの部屋を訪ねてこない。かと言って、ジョナサンを一人部屋に残して人を捜しに行くわけにもいかない。呼び鈴を鳴らしても、誰も来てくれない。そこで責任感の強いジェニファーは、じっと部屋にいるしかなかった。「困ったわ……自分の部屋に戻っていいのかも分からないし……それに……」何より、ジェニファーはお腹をさすった。今日は昼食から何も口にしていなかったので、いい加減お腹が空いてたまらなかった。「皆忙しいのかしら……」自由に厨房を使わせてもらえるなら人の手を借りずとも自分で料理出来る。だが、誰も部屋を訪ねてきてくれないのでジェニファーにはどうすることも出来なかった。「……せめて誰か様子を見に来てくれればいいのだけど……」ジェニファーはため息をついて、眠っているジョナサンを見つめた――****――20時半書斎で少し遅めの食事を終えたニコラスは食器を下げに来た給仕のフットマンに尋ねた。「ジェニファー
「つい先程、ジョナサン様はお休みになられたところです」メイドのダリアと一緒にベビーベッドを覗き込んだジェニファー。ベッドの中には、1歳になったばかりのジョナサンが小さな両手を握りしめてスヤスヤと眠っている。バラ色の肌に、金色の巻き毛のジョナサンはまるで天使のように愛らしかった。「まぁ……なんて可愛いの……」ジョナサンを見つめるジェニファーの顔に笑顔が浮かぶ。それはテイラー侯爵家に着いて初めての笑顔だった。「可愛いだけではシッターは務まりません。失礼ですが、赤子のお世話はされたことがあるのですか?」どうせ赤子の世話など出来ないだろうとダリアは決めつけ、冷たい口調で尋ねた。「はい。子供の頃から、赤ちゃんのお世話はしてきたので得意です」「え?」笑顔で答えるジェニファーにダリアは苛ついた態度で尋ねた。「子供の頃からですか? そんな話を信じろとでも? ジョナサン様のお世話をしたくてそのような嘘をおっしゃっているわけではありませんよね?」(折角、執事長からジョナサン様のお世話を任されていたのに……。無理やりニコラス様の後妻に入った女に、お世話係を奪われるなんて……!)ダリアは出産と同時にこの世を去ったジェニーの代わりに、ジョナサンの世話をしていた。彼女は子供を出産し、子育てをした経験があるからだ。しかし僅か2歳で、子供を流行病で亡くしてしまった。我が子を失い、絶望していた彼女を憐れんだ使用人たちはジョナサンの世話係にしてもらえないかと執事のモーリスに相談した。そこでモーリスはニコラスにジョナサンの世話係にダリアを起用してはどうかと提案し、その要望が叶ったのだ。ダリアは、ジョナサンをまるで我が子のように大切に育ててきた。それは彼女にとって生きる希望でもあった。それなのに、ニコラスの後妻として現れたジェニファーに役目を奪われてしまったのだ。当然、ダリアにとっては納得のできない話だった。(許せない……! 私からジョナサン様を奪うなんて……!)ダリアは激しい憎悪をジェニファーに向けていた。しかし、そんな思いに気付かないジェニファーは笑顔で尋ねた。「ダリアさん。では早速ジョナサン様のお世話の方法について教えていただけますか?」「え、ええ。では今から教えて差し上げますね……」この女に教えるのはジョナサンの為……。ダリアは感情を押し殺し、返事
「……様、ジェニファー様……」すぐ近くで誰かが自分の名を呼ぶ声が聞こえる。「う〜ん……」「ジェニファー様。おやすみのところ、申し訳ございません」その言葉で一気にジェニファーは目を覚ました。「お目覚めになりましたか? ジェニファー様」頭の上で声が聞こえ、見上げるとジェニファーを迎えに現れた執事がじっと見つめていた。「す、すみません! 眠ってしまっていたようで……」ジェニファーは顔を赤らめながら返事をし、ふと気付いた。いつの間にか部屋の中には夕日が差し込み、オレンジ色に染まっている。「いいえ、こちらこそお休みのところ大変申し訳ございません。何度もノックと、お声掛けをさせて頂いたのですが、お返事が無かったので……失礼とは思いましたがお部屋に入らせていただきました」執事のモーリスは深々と頭を下げた。だが本来であれば使用人が許可も無く、勝手に部屋に入ることはありえない。ましてや女性の部屋に男性使用人が入るなど、尚更だ。このことからジェニファーがドレイク侯爵家から、どれほどに軽んじてみられているか現れていた。だが、貴族令嬢とは程遠い乏しい生活を送っていたジェニファーが知るはずもない。「い、いえ。それで御要件を伺ってもよろしいですか?」「はい。既にご存知だと思いますが、旦那様にはジェニー様の忘れ形見でいらっしゃるお子様がおります。お名前はジョナサン様で1歳になられたばかりです。そこでジェニファー様にジョナサン様のシッターを任せたいとのことです」シッターという言葉を強調するモーリス。その言葉の意味にジェニファーは気付いてしまった。(そういうことなのね……つまり、私は名目上は妻であるけれども、実際は認められていないのだわ。私がここに呼ばれたのは、あくまでもジェニーの遺言と、子育て要因の為に、ここに……)「どうなさいましたか? ジェニファー様。ジェニー様のお子様のシッターは、お嫌でしょうか?」モーリスは挑発的に尋ねてくる。「いいえ、嫌なはずありません。シッターですね? 分かりました。是非、やらせていただきます。それでジョナサン様はどちらにいらっしゃるのですか?」「え……?」元気よく返事をするジェニファーに一瞬モーリスは戸惑うも、言葉を続けた。「では、ご案内致します」「はい、よろしくお願いします」ジェニファーは立ち上がって、返事を
釣り書きを見せ、ニコラスに冷たい言葉を投げかけられてジェニファーは部屋を出た。――パタン扉を閉め廊下に出たジェニファーは、ニコラスのあまりの変貌ぶりに我慢できず、とうとう目に涙が浮かんでしまった。「……うっ……」(駄目よ、泣いたりしたら……泣いたら、もっと私の立場が悪くなってしまうわ……)ジェニファーは必死に自分に言い聞かせ、目をゴシゴシこすったそのとき。「ジェニファー様でいらっしゃいますか?」不意に背後から声をかけられ、ジェニファーは振り向いた。「は、はい」すると、そこにいたのはジェニファーとさほど年齢が変わらないメイドだった。メイドは振り返ったジェニファーに会釈した。「私、本日よりジェニファー様の身の回りのお世話をさせていただくことになりましたメイドのジルダと申します。よろしくお願いいたします」会釈してきたジルダにジェニファーも慌てて挨拶した。「こちらこそよろしくお願いします。ジルダさん」「私はメイドなので、ジルダで結構です。それではまずはお部屋にご案内させていただきます」表情一つ買えず、ジルダは前に立って歩き出したので、ジェニファーも後をついていくことにした。テイラー侯爵家は少女時代、一時的にお世話になっていたジェニーの別荘よりもずっと大きかった。長い廊下を歩いていると途中何人ものメイドやフットマンに出会った。けれど、皆挨拶するどころかジェニファーをチラリと一瞥するだけだった。まるでジェニファーには少しも興味を抱いていない様子だ。(ニコラスの態度で分かったけど……ここで働いている人たちからも、私はよく思われていないのね……)そのことが、ますます悲しかった。ニコラスは明らかに自分を憎んでいるし、使用人たちも自分が誰なのか分かっているはずなのに冷たい態度を取っている。ここには、自分の味方が誰一人いないのだということをジェニファーは感じていた。けれど、何故ここまで自分がテイラー侯爵家から憎まれているのか分からなかった。ただ、一つ思い当たることがあるとすれば……。(きっとニコラスが私のことを憎んで……それで、ここにいる人達に悪く言っていたのでしょうね……。ジェニーの遺言状さえなければ、ニコラスは私の顔すら見たくなかったはずだわ)だとしたら、自分はこれからこの屋敷でどのように暮らしていけばいいのだろう?そんなことを
――その頃大豪邸であるテイラー侯爵家のエントランス前で、ジェニファーは不安な気持ちで辻馬車の御者と待たされていた。「あの、お客さん。失礼ですが、本当にテイラー侯爵家と関係のある方なんですよね? お金は支払ってもらえるんですよね?」御者がジェニファーに尋ねてきた。「え、ええ。大丈夫のはずです……多分」「多分とは、どういうことですか? まさか、このまま締め出されたんじゃないでしょうね? 最初に応対してもらってから既に15分近く待たされていますよ? もし後5分待って誰も来なければ、無賃乗車で警察に連れていきますからね!」「そ、そんな……警察なんて……!」御者の脅迫めいた言葉にジェニファーが青ざめた。――そのとき。眼の前の扉が開かれ、執事のモーリスが現れた。その後ろにニコラスの姿もあるが、ジェニファーと御者は気付いていない。「どうもお待たせいたしました。それで、馬車代はおいくらになるのですか?」モーリスは男性御者に尋ねた。「え、ええ。銀貨3枚になります」モーリスは頷き、金貨1枚を御者に渡した。「どうぞ、お持ち下さい。お釣りはいりませんので」「え!? ほ、本当によろしいのですか!?」金貨1枚という大金を手にした御者は驚きの声をあげる。「ええ、もちろんです。ですが今回のことは決して口外しないようにしてください。もし約束を破れば……ここはテイラー侯爵家です。どうなるかはお分かりになりますよね?」モーリスの言葉に御者はゴクリと息を呑む。「はい……も、勿論分かります。そ……それでは失礼いたします!」御者はお辞儀をすると慌てた様子で御者台によじ登り、まるで逃げるように走り去っていった。「あ、あの……馬車代を用立てていただき、ありがとうございました」ジェニファーは深々と頭を下げてお礼を述べた。「……いいえ。別にこの程度のこと、お礼を言うまでもありません」そしてモーリスはじっとジェニファーを見つめる。「あ、あの……?」ジェニファーが戸惑い、声をかけようとしたとき。「君が、ジェニファー・ブルックか」扉の奥から声が聞こえ、ニコラスが姿を現した。「ニ……コラス……」15年ぶりに再会したニコラスを見てジェニファーは目を見開く。ジェニファーの初恋だったニコラス。辛い時、悲しい時はいつもニコラスの写真を眺めて自分を元気づけていた。その彼